尾山台

やっと出会えた本物の家 まえがき

はじめに
2003年6月、我が家が完成した。

コンクリートの箱から木の家へ。どこにいても窓のある視界の広がりは、自然を身近に感じさせてくれる。家の中を抜ける風と自然の光の中でゆっ たりくつろぐ心地よさ。

無垢の木、漆喰の壁・天井、自然素材の優しさ、キッチン・家具・照明カバー・アイアンの手摺り・陶板・洗面ボールなど手づくりのあたたかいぬくもりが室内いつぱいに広がる。

玄関から門扉へと続く細く長いアプローチ。水鉢にそそがれる涼しげな水の音、蔓性の植物そして四季折々の植生が楽しめるようにと植えられた木々、目をこころを楽しませてくれる。

男と女、そして発育盛りのやんちゃな「かと。愛らしい仕草で人を魅了する「もも」。そして唯一日本犬のりりしさを持つお姉さん役の「ぴぴ」、三人の娘たちとの生活がスタートした。

土地探しから始まった家づくり。マンションの売却の関係で仮住まいが必要となった。しかし仮住まいそして新居へとの二度の引っ越しで随分身のまわりがすっきりした。無駄なことをしてきたとの自責の念にかられながら、こういう機会でないと捨てられない、と、かなり思い切って処分した。

今後はもっとシンプルな生活をしていこうと強く思った。そして物が少なくなって生まれたゆとり空間、身軽な暮らしは、物に溢れた生活より、はるかに豊かな時間を過ごせることに遅ればせながら気づいた。

仮住まいは建築地からすぐ近くの一軒家。戸建ての生活は、マンションと異なり近隣との人間関係が身近となり、土地・環境への関心も今まで以上に深まった。

家づくりを具体的に考え始めて半年ほどの2005年5月に地を購入した。風致地区、開発がらみで申請に手間取り、また高台にあり、地下室をつくるということもあって地盤にかなりの時間を要した。だいぶ遠回りしたような気分になっていたが、土地購入から完成まで1年ちょっと、結構ハイペースな家づくりだったとあらためて思った。

仮住まいは築50年の木造の平屋。昔の日本の住まいがいかに冬寒かったか、長いマンション生活ですっかり忘れていた貴重な体験ができた。

冬暖かい家、イコール快適な暮らしと誰もが信じて疑わなかった時代。しかしその結果が皮肉にも夏暑い家となり、建物の腐れ、そしてアレルギー、化学物質過敏症と、住まい手の健康むしば をも蝕む結果を生んでしまった。

我が家の家づくりの基本精神は住まいも住み手も健康、機械設備に頼らない自然の恵みを生かしたエコロジー住宅である。

テーマはいくつか、その一つが「ペットとの共生」。従って土地探しは重要な要素の一つだった。子どもたちのことを考え環境重視で探すことになった。当初広いエリアで土地探しを行い、 少々堪えた。

しかし不思議なもので、見た瞬間に妙に気持ち良く、こころ安らぐ場というのを身体で感じ、エリアは自然に絞られていった。感性の合った土地は、30坪くらいでも、馴染めない土地の 50坪60坪の土地と同じくらいの広さを感じた。

最終的な決断をしてくれたのは彼女たちだ。検討していた土地の近くに多摩川沿いの河川敷があり、そこに連れて行ったときのこと、今までにない興奮ぶりではしゃぐ姿を見て迷わず決めた。後になって東京23区内唯一の渓谷が徒歩圏内にあることも知り、恵まれた自然環境の 立地にとても満足している。


家づくりを決断するには結構迷いもあった。木造住宅の仕事をしていてコンクリートの箱の生活はないと以前から思っていたものの、鍵一つで戸締まりできる利便性、セキュリティも含め、なかなか重い腰が持ち上がらなかった。

ところが2001年、21世紀の幕明けは衝撃的だった。8月に、生後一年の愛犬ゴンを交通事故で失う。この時初めて食べ物が喉を通らないという経験をした。

その11ヶ月後、80歳の誕生日を目前に母が突然逝ってしまった。 母親の存在の大きさは、多分元気なうちには気づけないことなのだと思う。喪失感、しばらくは精神的に立ち直れなかった。 悲しみばかりを引きずっててはいけないと、幸せだった母さんと、そしてゴンちゃんとの思いをしっかりこころに刻み、生活の場を変えて出直そうと決断した。


「最後まで自立できる家」も我が家の家づくりの大きなテーマ・母との暮らしの中で、ちょっとした工夫で高齢者がもっと安全に、もっと行動的に生活することができるということを肌で感じていた。

年をとると背が縮む、思うように手が伸びない。届かないスイッチや切れたら自分で換えられない照明、重いドアやサッシ。食器洗い機・洗濯機など設備の小さな文字の表示。引き戸のとってやドアノブ、蛇口の栓など、力をかけずに、しかも細かい指先の動きを必要としない仕様であったらと。

また、滑りやすい素材や仕上げは床の段差よりも怖い。母は大理石の玄関で転倒し骨折した。
つまずくのも、床の段差よりは木の床からカーペットなどと摩擦係数の違う場所が多かった。
浴室は、手摺り、滑り止めマット、場合によってはシャワーチェアーが必要なケースもある。
身体の小さな高齢者にとってはゆったりした浴槽は事故の原因となりかねない。

高齢者にとって優しい住まいとか、バリァフリーについては個人差が大きい。我が家の「最後まで自立できる家」のモチーフは死ぬまで自分の身のまわりのことは自分でできる家である。

コンセントの位置や照明については自分の背丈で届くところを原則とした。しかし床はフラットでないし、地下室ありロフトあり。
将来くるま椅子になったらとの想定はなく、92歳でなくなるまで二階の自室と一階の生活 空間を難なく上り下りしていた祖母の姿に自分を重ねている。

今回の家づくりの経験から、何のために家をつくるのか、一緒に暮らす意味合いは、といった問いに自分なりの答えが出せたような気がする。
家づくりにはより前向きに生きようとの思いと、これまでの生活の精算がともなうものだと思った。

家づくりに必要不可欠な荷物の整理。ほとんど使うことなく眠っていたもの、買ったことすら忘れていたもの、目の前のものたちに生きてきた軌跡を問いただされているような心境となる。無駄、そして物欲にとらわれていた過去を素直に省みる。

少しずつの変化に人はとても鈍感だ。一年に1キロ、見た目に変わらない体型も10年で10キロ賛肉として蓄積される。同じように、家の中の汚れも徐々に荒れていくと慣れてしまう。ましてや目に見えない自分のこころ、家族の気持ち。ちょっとずつこころが離れていく。

少しずつの傷つけあいが、日常というぬるま湯の中で流され、いつしか不透明となっていく。


家づくりは、これまでの人生を振り返り、と同時に死を意識した人生の計画を真剣に問える最大のチャンスと思う。


心地よい家ができた。心地よい空間で、ゆったりした時間の流れを感じながら、自分を見つめ、家族を見つめ、これからの日々を新鮮な日常の積み上げにしていきたい。


追記
2008年、光が呼吸し、まわる家が誕生する。
空気がまわる家に出会ったのは今から約30年前のこと。直感でこの仕事に飛び込んだ。エアサイクル住宅、日本で初めての工法なのだから誰も知らない。ところが住宅の床下や壁の中、小屋空間に冬は太陽熱、夏は自然の風が流れるシステムなのょと、知識のない私の説明にもかかわらず、ほとんどの人がそれって良さそうと答えてくれた。


いつからだったろう、空気と一緒に光が届けられたらどんなに素敵だろうと。窓のないところからも室内に光がとりこめる。床下や壁の中、小屋空間に太陽光が注いだら、建物もきっと気持ちよいだろうなと。ちょうど間接照明や建築化照明、LED照明などの新しい取組みをしていた時期でもあった。

かつては豊かさの象徴のように思われた家の中のどこもが明るい暮らしを見直したいと思っていた。必要なところに必要な明かり、それを昼間は太陽光で実現しようとの発想から生まれた光のまわる家が2008年、那須高原と伊豆高原に完成する。那須の家は実はずっとずっと夢に見ていた我が家のセカンドハウス、そして伊豆高原は癒しのサロン。住む人と建物の健康に光が加わってスピリチュァルなエネルギーの溢れたすてきな住まいとなることと楽しみにしている。


今回の新改訂にあたり、口絵として最近の実例写真を追加した。本文については加筆訂正等していません。光が呼吸しまわる家、那須高原の生活は後日書籍にまとめたいと思っている。

2008年4月  若林礼子

お客様の声

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